201年09月24日
1-1 被害の概要
若宮戸地区の鬼怒川左岸の河畔砂丘帯の一部において,幅約200mにわたり河畔砂丘が高水敷と同程度の高さまで削平されており,10日未明の鬼怒川の水位上昇に合わせて,削平部分から洪水が流入した.この流入による最大水深は,削平部分での比高(仮復旧した地表面からの高さ)約220cmであり,若宮戸地区の住宅部分での浸水深(道路面を基準)は約150cm程度であった.集落部分では大規模な住家の流出はなかったが,納屋・倉庫等の構造物の流出や道路沿いのブロック塀の倒壊(転倒)などが発生した.
被害要因(洪水に関する用語)の定義としては“越水”であるが,実質は無堤防区間からの超過洪水の流入がおこっていた.また,若宮戸地区からの流入は午前6時ごろから始まったとされ,南方の旧石下市街部に向かって洪水が拡散した.若宮戸地区から約2.5km南東のアピタ石下店では午前10時15分ごろから1階店舗に洪水が流入した.
若宮戸地区の”越水“による多量の洪水の流入が,旧石下町市街部を湛水させた要因と推定できる.より南方の上三坂地区の破堤幅は約200mであり,実質的には削平部分からの流入は,破堤に匹敵する流入現象であったものと推定できる.
1-2 若宮戸地区の鬼怒川左岸部の地形変遷
若宮戸地区の鬼怒川左岸部には,明治時代の地形図(明治17年(1884年)2万分の1迅速図)によると南北方向(河川の流下方向)で約2km,最大幅約250~300m,最大比高(低地部との標高の差)約8~9mの河畔砂丘が分布していた.河畔砂丘は,河川に沿って季節風等により形成される地形で,基本的には洪水時の自然堤防の高まり(比高2~3m程度)に風成の砂層が累積したものであり,河川に沿う形で帯状の高まりとなる特徴がある.若宮戸地区では,今回の洪水の流入部分と集落のすぐ西側に2列の帯状の高まりが分布していたものと推定できる.この河畔砂丘は,鬼怒川の洪水に対して十分な比高(高さ)と幅を有していたため,明治時代以降の鬼怒川の堤防整備の中でも,この区間では築堤を行わず自然地形を利用して洪水を防御していた.
昭和43年(1968年)ごろに,若宮戸集落の西側の河畔砂丘の約半分が削平され,農地として整備された.この段階の削平事業では,河畔砂丘のほぼ中央部の高まりは残された.昭和47年(1972年)ごろに農地の中央部が事業用地に転用され,1993~1998年の間まで事業用地として活用されていた.2004年の空中写真ではすでに事業が終了し事業用の構造物が撤去されている.その後,この用地は太陽光発電の事業用地となり, 2014年に河畔砂丘の中央部に残存していた高まりが約200mにわたり削平され,太陽光発電機器が設置された.この削平部分が今回の洪水の流入に至っている.
いわゆる鬼怒川の高水敷に相当する部分(養鶏場の跡)も含めてこの地区の河畔砂丘は民有地であり,河川法による河川の範囲ではないため,農地への地形改変や事業用地への転用が行われてきた.このような堤防の役割を果たしていた地形部分が民有地であり,河川法による規制を受けないような法的な空白地帯の実態の解明と堤防機能として維持するための法制面を含めた整備が今回の災害から課題としてあげられる.
1-3 防災としての課題
○上流部における越水規模の把握と洪水ハザードマップ等を利用した下流部での避難行動
若宮戸地区の越水は規模が大きく,多量の洪水の流入をもたらしたが,越水箇所より下流部での避難ができていなかった.流入の4時間後に商業施設に洪水が流入して孤立したことから判断すると,洪水ハザードマップ等を利用した下流部での避難行動が十分でなかったことが伺える.
○“越水”という用語から想定する危機感
一般的に越水という用語からイメージする流入量(堤防を越えて少し水があふれている)と今回の現象(幅約200mの部分から水深約2mの水が流入している)が大きく乖離しているため,一般や行政担当者に対しての危機感が共有できなかった.
○河川沿いの堤防機能を有している民有地の在り方
若宮戸地区のように比較的大規模な河畔砂丘が存在し,少なくとも明治時代以降は堤防の機能を有していた事例は,全国的には少ないと思われる.今後,堤防の機能を有する民有地の把握と河川管理の方策の検討が必要となった.河川用地として地役権の設定など対応が求められる.
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